働く女性の皆さん、初めまして。大阪で「転石 ビジネスサークル」なるコミュニティを立ち上げた小野 曜(よう)と申します。
今回は、会社勤めをしていた私が独立の道を選んだ理由をお話ししたいと思います。
すこし長いですが、お付き合いくださいませ。
1 こんな想いからから今回筆をとりました
「転石 ビジネスサークル」は、東京でサラリーマンをしていた私にとって
「普通のサラリーマンが勤めを辞めても稼いでいくために必要なスキル、経験、人脈を得られる場所」
を大阪で見つけるのは簡単ではなかったことから「(見つけられ)ないなら作る」ということで立ち上げたサークルです。
サークルを立ち上げたからには、これを維持、発展させたいと思うもので、誰にどんな価値を提供すればサークルを維持、発展させることができるかを考えなければなりません。
この「誰にどのような価値をどうやって提供して、組織を継続させるか策を練る」ということは事業創造そのものだと思うのですが、
いま、自分がやっていることを事業創造、つまり起業というのをはばかる気持ちがあるくらい、
私は起業する気がない普通のサラリーマンでした。
そんな私が、サークルを立ち上げて事業創造に走る羽目になったのは、
4歳になろうとしていた第1子が保育園に行くのを嫌がったことがきっかけです。
当時の勤務先は、待遇、仕事の内容、人間関係を含めた職場環境のどれをとっても満足のいくもので、私にとって最高の勤め先でした。
その勤めを辞めるという決断は非常に苦しいものでした。
子供を抱えて働く女性の多くにとって、勤め続けるべきか否かはなかなか頭を離れない問題でありながら正解のない問題だと思います。
私は、退職して1年、起業もどきをする羽目に陥ってその成否も見えないのに、
退職を後悔したことがなく、退職して良かったという思いを日々、強めています。
それでも、私は職を辞すことが正解だとは思いませんし、職にとどまることが正解だとも思いません。
子供を育てながら働き続けることが正しいのかどうかは誰にも分らないけれども、
「私が何をどのように考えて勤めを辞めたかということは、勤めを辞めたいと思いながらも踏み切れない人にとって、何かの参考になるかもしれない」と考え、今回、こちらに記事を掲載させていただくこととしました。
2 迷いなく疾走した日々
私は1971年生まれ、社会に出たのは1998年です。
新卒で入社した会社は一部上場の環境エンジニアリング企業で今でも大好きな会社ですが、自分を鍛えなければと思い約3年で退社、弁理士資格を取得して5年ほど特許/法律事務所に勤めました。
その後、2008年から7年半、金融系の民間シンクタンク企業に勤めました。民間シンクタンクに勤めて約1年半経った2009年、38歳目前で第1子を授かりました。
私はもともと男性的な気質で女性同士の付き合いは苦手で子供の扱いも下手、
一方、夫は優しい性格で子供好きな上に妻には仕事をして欲しいという考えを持っている人です。
私たち夫婦は「子供を産むのは女性(母)しかできないけど、子供を育てるのは母でなくてもできる」と考えており、
夫は育児する気満々、私は復職する気満々でした。
ということで第1子生後4か月半の時、ベビーシッターさんを頼んで私は復職しました。
復職後、当時の部長からは冷遇され評価されなかったものの、評価されていないことをいいことに課された仕事をこなした「余りの時間」でやりたい仕事をやっても5時前に会社を出ることができ、会社を離れれば家事子育てに没頭する、という充実した日々を過ごしました。
そうして1年半ちょっと経過したところで2度目の産休に入り、2011年に40歳目前で第2子を出産しました。
第1子の育休中は、夜中、1時間近くかけて授乳して1時間近くかけてようやく寝かせたと思った赤ん坊がまたお腹をすかせて泣きだすのに疲弊し、
夕方になると黄昏泣きをする赤ん坊に手が出そうになる自分に愕然として憔悴しきっており、
子供の世話を他人に委ねて仕事に行くことが子供にとっても私にとっても夫にとっても最善であることを疑ったことはありませんでした。
一方、第2子の子育ては第1子に比べれば楽勝、仕事に行かない時間的・肉体的余裕も手伝って、
第2子の育休中は2人の子供のふるまいや成長を楽しむ余裕ができ、第2子の生後7か月で復職するときには
もっと長く子供と一緒に過ごしたかったという気持ちを抱えていました。
それでも復職してみれば、私の育休中に入社した人とも仲良くなって職場はさらに楽しく、復職半年後には部長交代で私の評価も上がり仕事も充実、何一つ不満のない日々が続きました。
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3 長女の登園拒否!~迷い続ける日々
復職後1年と少しが過ぎた2013年の晩夏、4歳の誕生日を迎えようとしている第1子(長女)が、
保育園近くまで行くと「行きたくない」と言い出し、涙まで流すようになりました。
長女は保育園に通い始めた頃や次女の産休・育休前後の長い休みの後に登園を嫌がったことはありましたが、
4歳を前にした登園拒否は赤ちゃんの頃の登園拒否とは違うように感じました。
その時、思い出したのはその数か月前、会社の復職後研修で聞いた年上のママさんの話。
その先輩ママさんには小学校4年の女の子、幼稚園の男の子がいて、私と同じタイミングで第3子の育休から復帰していたのですが、彼女は「長女のために次女の育休があってよかった」といったのです。
彼女によれば「男の子は小さいころは手がかかって大変で、女の子は小さいころは手がかからず楽。でも、女の子は大きくなってから話を聞いてやらないといけないから、大きくなってからが大変なの」ということでした。
4歳を前にした長女の登園拒否は、赤ちゃんを卒業した長女が友達関係や自分が過ごす環境に対して様々な複雑な感情を持ちはじめ、その複雑な感情を自分では処理しきれずに発しているSOSのように感じられました。
そんな長女を前に、先輩ママさんの言葉を思い出し、今すでに「話を聞いてやらないといけない」時が来ているように思いました。
そしてこれから先、長女、そして次女が登園または登校を嫌がったり時間をかけて話を聞くことを求めたりすることがあるだろう、
そのとき私は今のまま勤め続けていれば子供より仕事を優先して子供を登園/登校させるだろう、そしてそれを将来悔いるだろう、そう思いました。
そう思ってからは、第2子の育休明けから心の片隅に巣食っていた「子供と過ごす時間が足りない」という思いが日増しに膨らみました。
当時の勤務先は裁量労働制を採用しており、仕事が終われば何時に帰宅してもよく、
理屈では私は2時に退社してもよかったのですが現実はそうはいきません。
そんな現実を考えるうち、「子供が親を必要とするとき、必要とされる時間、子供と向き合う時間」を確保するためには両親のどちらかが勤めを辞めるほかない、という結論に達しました。
この結論に至る詳細は機会があればまた別に書いてみたいと思いますが、
要するに今の社会や会社では私が本当に必要とする「柔軟な働き方」はできず、「いま」親を必要としている子供を抱える私は、それができるようになるのを待つことはできないと判断したのでした。
こうして「私か夫のどちらかが勤めを辞めるほかない」との結論に至り、私が辞める方が潰しが利いてよいと決め、
その結論に納得しているのになお、私の中では退職をためらう気持ちが渦巻き続けました。
頭では私が辞めて独立・自営の道を歩むのが最善だとわかっているのですが、心は当時の勤め先を辞めたくないという気持ちでいっぱいで、
退職を決意できず、悶々とした日々が続きました。
4 迷いの原因は・・・!~迷いが消えた
そんな日々が4か月続いて迎えた2014年の元旦。私はなぜ、会社を辞めたくないのか自問していました。
(答1)楽しくて、のめり込める仕事(私にとって仕事は、学びと気づきを与えてくれる、自分の好奇心を満たす最高の遊びのようなものでした)
この答えに対し、「楽しくてのめり込める仕事」は本当に、今の勤めを辞めると失うのか?と再度、自問します。
再度の自問に対する答え
→私は何をやってもだいたい楽しくてのめり込む性質。だから、勤めを辞めても、独立・自営して何かすることで「楽しくてのめり込める仕事」をすることになる。つまり、勤めを辞めても「楽しくてのめり込める仕事」を失うことはない。
この要領で次々に、「会社を辞めて失うものは?」という問いに対して答えを出し、
その答えに対し「それは今の会社を辞めると失うのか?」と再度、問い直す自問自答は以下のように続きました。
(答2)気が合う楽しい仕事仲間
→どこに行っても、気が合って一緒に仕事ができる人の一人くらいは見つかるもの。しかも私には気が合って一緒に仕事をしたい人がすでに社外にいる。だから、勤めを辞めても「気が合う仲間と一緒に仕事をする」ことができなくなることはない。
(答3)○○会社社員というブランド、身分証明
→正直、これを失うのは痛い。けれども、いつかは(=定年が来れば)この会社を辞めなければならず、嫌でも失ってしまうもの。であれば、いま自ら手放して、「○○会社所属」に頼らず稼げる信用・実力を養うことにチャレンジすべき。だから、「○○会社社員」という身分を失うことは、退職を決意する障害にならない。
(答4)安定して恵まれた今の収入
→・・・。!!!
会社を辞めて何を失いたくないと考えているのかを自問して出てきた「お金(今、得ている収入)」という答え。
この答えが出た瞬間、自分が、安定し恵まれた収入を失うのが嫌で退職したくないと思っていることに初めて気が付いて愕然としました。
弁理士という資格は独立開業可能な資格なのですが、私は資格を取る前も取ってからも独立開業・自営する気はさらさらなく、誰かに雇われて自分が必要とするお金をもらえる程度-例えばパートの年収に毛が生えた程度―に働ければいい、と考えていました。
退職を決意できずに迷っていた当時、私の収入は私が必要とする額を大幅に上回っており、私が勤めるために必要な「都心で暮らし、子供を預けるために必要な費用」をなくせば、夫の収入だけでもつつましく暮らしていくことは可能で、金銭的理由から私が退職を忌避する必要はなかったのです。
にもかかわらず、私は「(楽しく好きな仕事ができて)楽してたっぷりお金がもらえる」ことに執着を感じて退職をためらっている・・・そう気づいた瞬間、もはや何の迷いもない、退職する、と決意しました。
迷いが消えた後、私は退職する最終期限を長女が小学校に入学する2016年3月末と定め、脱サラ・独立に向けて走り出します。実際に退職したのは2015年9月、退職希望を上司に伝えたのは2015年3月だったので、退職を決意してから退職に向けて実際に動き出すまでに1年以上がかかりました。
退職を決意してから退職準備に入るまでの1年間、そして退職するまでの1年半、退職したくないという気持ちは何度も頭をもたげました。それでも退職を決意してから退職するまでの日々は充実した日々でした。そして退職してからの日々は、思っていた以上に肩の力を抜いたチャレンジに溢れ、気づき、学びが多く、刺激に溢れています。
退職を決意してから退職するまでの日々、そして退職してからの日々については、また機会を改めて書くことができればと考えていますが、本稿の締めくくりとして、私が会社を辞めた本当の理由は子育てを優先させるためでなく、自分のための自分の人生を切り替えるためだったことを告白いたします。
会社を辞めたくなくて悩んでいた3年前、私は何一つ不自由のないサラリーマン生活に安住したいと思う一方で、そこに安住してはいけない、長い老後を働き続けていくために40歳を過ぎ50歳を超える前に自分の職能をリセットすべく新たなチャレンジをしなければならないと感じていました。
私はいま、長女が登園を嫌がり私に退職を決意させてくれたことで、安定を求める気持ちを振り切って新たなチャレンジができる余力が残るうちに人生を切り替えることができたと思っています。
長い文章を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。