働く女性の皆さんこんにちは。「転石 ビジネスサークル」代表の小野 曜(よう)です。
2016年8月に厚生労働省が公開した報告書「働き方の未来2035」には、「2035年には『働く』という活動が、単にお金を得るためではなく、社会への貢献や…自己の充実感など、多様な目的」を実現するための活動になると書かれています。
アブラハム・マズローの欲求段階説で知られるとおり、物質的欲求が充足されると人間は精神的充足を求めるといわれています。
戦後70年、長時間労働を容認してまで物質的豊かさを求めた価値観が、いま20代の方を中心としてまさに転換しつつあるように感じます。
そこで以下、なぜ20代の方を中心として価値観が転換しつつあると考えるのか、価値観が転換した社会で働くため、どのように備えるか、書いてみたいと思います。
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1 2017年の20代、その価値観
2017年の20代は1987年以降に生まれ、「さとり世代」または「ゆとり世代」と言われる方々です。
私は、家人が大学の教職に就いている関係で、就活中の20代前半~卒業後数年の20代後半の方々と話すことがあります。
我が家を訪れる家人の教え子は、中堅より少し上位の大学の学生さん、真面目できちんと勉強し、おしゃれもして明るく素直、常識的で平均的な暮らしを志向しています。
一昔前で言えば典型的な中産階級、多くの企業で重宝されるタイプです。
彼らのほとんどは普通に就職していくのですが、彼らは漠然と「この企業に一生勤め続けることはないかもしれない」と考えています。
家人の教え子以外に私が知り合う20代の方には企業勤めを選ばずに独立・起業していたり、企業勤めしながら独立・起業準備したりする方も珍しくありません。
「会社に依存しないで働ける力を養うこと」「金銭的豊かさを求めて過労死するほど働くより、収入が低くても精神的に豊かな暮らしを実現すること」を求めていると感じます。
前回も紹介した、毎日新聞社『リアル30’s』で紹介されている「年収はどんどん下がるだろうし、仕事も減る。
だったら、お金で買えていた豊かさや幸せを、地域のつながりや一緒にお茶を飲める場所から得ればいい」という意見は今の20代の多くの方に支持される考え方だと感じます。
経済成長が期待でき金銭的豊かさを追い求めていた時代であれば、金銭的豊かさを得るため奴隷のように働くことも容認されるでしょう。
しかし経済成長が期待できず、いくら働いても収入が増えるかどうかわからなければ、
「自由に働いてほどほどの収入が得られるようになる」ことが求められるのは当然でしょう。
2 「金銭的豊かさより精神的豊かさ」という価値観が浸透してきた!
日本社会は戦後の焼け跡から物質的な豊かさを求め続けており、経済成長の中で育ち働いてきた今の55歳以上の世代には物質的豊かさを求める価値観がどこかに染みついています。
生産拡大、消費拡大を求める価値観は必然的に、より多くのお金を儲けるための長時間労働や生産効率を上げるための画一的な労働を求めます。
決められた場所で決められた時間、それも1日8時間以上もの長時間、働くという今の働き方は、
今の70代、80代が働き盛りだった30年も40年も前から続いてきた働き方です。
こうした画一的で長時間働く働き方がこれまでさほど問題とされなかったのは、3,40年前はそうした働き方に問題がなかったからではなく、
「働くほど金銭的に豊かになるからいいのだ」ということで「問題にされなかった」だけです。
いま長時間労働や画一的な働き方が否定されつつある中には、長時間画一的に働く見返りとして得られるはずの金銭的豊かさが得られない、あるいは金銭的豊かさは求めていないという苛立ちがあるように私は感じています。
しかし金銭的な豊かさを求めない価値観、「ほどほどに稼げればよいので、精神的な豊かさが欲しい」という価値観は、つい最近まで日本では一部の人だけが持つ「変わった価値観」でしかなかった、少なくとも社会を動かすほどに賛同者が多い価値観ではなかったと感じています。
私は物心ついた時から「お金より時間、精神的なゆとりが欲しい」という価値観を持っているのですが、バブル世代に近い氷河期世代である私の世代で私と似たような価値観を持つ人は少数派でした。
私の世代の多数派の価値観はバブル世代の消費好きに近く、しっかり稼いで好きな物を買ったり好きなことをしたりすることを好みます。
私たちの世代でいわゆるロハス的価値観を持つ人はあか抜けない理屈屋、「地味で分厚い眼鏡をかけて周りから浮く真面目でお堅い優等生」的なイメージがあります。
それが今の20代は、明るくおしゃれで健全なごく普通の人が、
ビンボー臭さも真面目臭さもなく、ほがらかにミニマムライフを楽しむことを志向します。
四半世紀に渡って「経済成長至上主義嫌いのミニマムライフ好き」として生きてきた私には、
「物質的充足よりも精神的充足」を求めるミニマムライフ志向はいま「アーリーマジョリティー」に受け入れられるようになってきたように見えます。
20世紀末、ミニマムライフ志向は、変わり者の「イノベーター」にのみ受け入れられていたのが、
2000年代前半、社会起業家のような「アーリーアダプター」に受け入れられ、この数年、いまの20代でようやく多数派層にまで浸透してきたと感じるのです。
ちなみに「イノベーター」「アーリーアダプター」「アーリーマジョリティー」といった用語は、
新しい商品やサービスが市場に浸透する程度を分析する「イノベーター理論」で使われる言葉です。
イノベーターとは、新しい商品にいち早く飛びつく変わり者で全体の2.5%程度、アーリーアダプターはイノベーターに続いて新しい商品を試行錯誤しながら使ってみようとする「新しいもの好き」で全体の13.5%程度、アーリーアダプターは新しい商品を恐る恐る試すボリュームゾーンの人で全体の34%程度とされます。
イノベーター理論によれば、アーリーマジョリティーに受け入れられるようになった商品の市場は急速に拡大していくとされています。
「必要以上に稼ぐために働くより、働く時間を減らして精神的に豊かに暮らしたい」という価値観を持ついまの20代の方々が、
アーリーマジョリティーであるという私の感覚が正しければ、この価値観の「市場」は、これから急速に拡がるのではないでしょうか。
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3 2035年に向けて、キャリアの多重化を
「ほどほどに稼げればよいから自由に働きたい」という価値観はまさに、
「働き方の未来2035」が描く「働き手が自らの意思で働く場所と時間を選ぶことができる社会」を求めます。
ですからいまの20代の方の間に拡がる「金銭的豊かさよりも時間的、精神的ゆとりを求める」という価値観が今後より浸透すれば、「働き方の未来2035」が描く社会が実現される確率はより高くなる、少なくとも「働き方の未来2035」が描く社会の実現はより強く求められるようになると考えられます。
「働き方の未来2035」が予測する社会が求められそれが実現するのであれば、働き手は、自らの意思で働く場所と時間を選ぶことができるようになる必要性に迫られます。
「働き方の未来2035」は技術革新のスピードが速い中で働き続けていくためには、いったん身につけた一つの専門的な能力を変化させていく必要、つまりキャリアを多重化する必要性があることを指摘しています。
首都圏ではすでに30~40代の中堅のサラリーマンでも、同じ会社の人や仕事相手という限られた人間関係の中から出て、
自分の知らない仕事や全く違った生き方をする人とも一緒に何らかの社会活動を行う動きが見られるようになっています。
4 2017年に20代である方へ
いま20代の方は、学生時代に個人でイベントを開催したり、NPOなどで社会的価値を創造する活動に携わったり、ビジネスコンテストにチャレンジしたりして、「会社に頼らず働く」という経験をしている方も珍しくありません。
とはいえ学生時代にそうした「社外活動」をした方でも、就職して2、3年は目の前の仕事をこなすだけで精いっぱいで、社外活動から離れてしまうこともあるようです。
特にいまの20代の方は素直でまじめであるがゆえ、目の前の仕事に一生懸命取り組むあまり、
自分の会社や自分の仕事以外に目が向かなくなっていく方も多いようです。
「空気を読んで周りに合わせることが得意」と評されるいまの20代の方は、就職するとその会社の空気に合わせようとしてしまう傾向も強いでしょう。
ただし安定した「いい会社」に今いるのは、量的拡大、物質的豊かさを求めた経済成長期に成功した企業に入りそのままその中で仕事人生を全うしたいと考えている人が中心です。
こうした方々は「必要以上に働くより、収入が低くても精神的に豊かでありたい」という価値観を必ずしも持っておらず、「自分の意思で働き方を選び、会社に頼らず働く」ことを志向してはいません。
「朱に交われば赤くなる」ことは悪いことではありませんが、価値観や求める生き方が異なる職場、空気に合わせたところで、自らの心が求める生き方が切り開けるわけではありません。
学生時代、社外活動をしていたとしても、社会に出たばかりの20代であれば社外活動に充てられる時間は限られます。
ですから、社外活動を通じて自分が本当にやりたいことやキャリア開発をしたいという気持ちをいったん棚上げして、
目の前の仕事に打ち込むのはある程度は仕方がないことですし必要なことだとも思います。
いまの職場に閉じこもって煮詰まることを防ぎ、
ついでに、社外の人から刺激を受けてキャリア多重化の糸口をつかむ―
いま20代の方は、そんな気軽で自然体の社外活動を「キャリアの多重化の第一歩」とすればよいのではないでしょうか。