働く女性の皆さんこんにちは。毎回大好評の、女性が活躍するベンチャー企業の社長インタビュー。今回のゲストは、株式会社ブロードエンタープライズの中西良祐社長。集合住宅向けの「入居者無料」のインターネットサービス「B-CUBIC」を主力商品として事業展開し、マンションオーナーから絶大な信頼を集める会社です。「お客様満足(CS)」「社員満足(ES)」「社会貢献」の3つを経営理念に掲げ、社員さんが安心して働けるようにと「家族経営」という考え方を大切にされています。同社は、新卒で入社した女性が育休を取得される等、「営業会社で女性の活躍が進む大変珍しい会社」としても大注目されています!
1.大学の頃から、起業家の頭角を現していた中西社長。
ー高野:本日はよろしくお願いいたします。中西社長は、子どもの頃から「将来は独立しよう!」と思っておられたのですか?
ー中西:「自分で事業をやってみたい」とは思っていましたが、いつするのか、何をするのかまでは考えていませんでした。社会人になり、2社目に勤めた会社を退職する時に「転職するか?独立するか?」と考え、「チャレンジしてみて失敗しても、まぁ何とかなるか」という気持ちで独立をしました。
僕は、小学校5年生から祖母に育てられています。祖母は本当に優しい人で感謝の気持ちしかありませんが、両親がいない分「自分のことは自分でやらないといけない」という自立心は強かったです。子どもの頃から自立を意識していたので、若くして独立することに繋がったのかもしれません。
ー高野:なるほど…そうなのですね。中西社長は、大学生の頃から経営者の頭角を表しておられたとお聞きしましたが、大学時代はどのようなことをされていたのですか?
ー中西:大学に入学した年の4月、様々なサークルの新歓コンパに誘われ「大学には一体どんなサークルがあるんだろう」と大変興味があった僕は、土日を使って、様々なサークルの新歓コンパに顔を出しました。そして、気づきました「あれ?これくらいやったら、自分でできるんちゃうか?」と(笑)そこで、1回生の5月に自分でイベントサークルを作ってしまいました。
ー高野:その発想と行動力がすごいです…!!
ー中西:当時は1200人ほど集めて、クラブで大きなダンスイベントを開催したり、夏は海、冬はスキーに行ったりして…ほぼ遊ぶことばかりでしたが…企画運営で十分お小遣いはあったので、アルバイトせずにサークル運営に力を注ぎました。
そして大学3回生の冬、友人から「一緒にバーをやらないか?」と誘われました。
実はその友人のお母さんがもともとスナックを経営していたのですが、その建物が阪神大震災で潰れてしまいました。その後、家主さんが建物を建て直し、お母さんに「もう一度お店をやらないか」と話をしたそうなのですが「私は年齢的にも厳しいのでもうお店はやらないから、ここを使って何かやってみたら?」と息子に持ちかけたという経緯でした。
そこで、サークル活動は後輩に譲り、お店をオープンする為の初期費用を出してくれた友人のお母さんへの返済計画をしっかりたてて、バーをスタートさせました。結局、大学を卒業した年の9月まで2年間ほど、友人とバーを経営していましたが「このまま夜の仕事を続けていっていいのだろうか…」と思うようになり、友人に権利やお店のことは全て渡して、僕は抜けることにしました。
ー高野:そこから、社会に出て就職することになられるのですね。
ー中西:はい。1社目は英語やパソコン教材の販売会社に入社しました。入社してから分かったのですが、そこが完全フルコミッションの会社でして…とにかく必死で働いて、おかげ様で営業成績も伸び、スピード出世しました。ただ、休みなしでハードな職場だったことと、更に上の役職を目指すには10年はかかることが分かり、転職を決意。2社目は、NTTの代理店の会社で、「名古屋に支店を出すから支店長として行ってくれ」と言われていたのですが、社長の考え方にどうしても納得できず、3ヶ月で退職しました。
その時に「また次の会社に転職するか、独立するか、どうしようか…」と考えていたところ、ちょうどNTTからマイラインという新しいサービスが出ることを知り、「マイラインを代理店販売する会社として独立する」ことを決めました。
2000年12月、26歳のことです。
2.独立して最初のうちは、決して順風満帆ではなかった。
(女性社員さんとのミーティングの様子。和気あいあいで、風通しの良い社風であることが伝わってきます)
ー高野:もともと通信系の会社で営業をされ実績を出しておられたので、独立後も順調に売上を伸ばしていかれたのか…と思ってしまうのですが、実際はいかがでしたか?
ー中西:いえ、色々ありましたよ(笑)最初はなかなか売上が上がらず、みんな必死でした。そのうちようやく月商が500万円くらいになった時、入金予定の1600万円を取引先に持ち逃げされてしまいました。そのお金をあてにして、事務所拡張やスタッフ増員を決めていたのに、全て支払いができなくなり…方々で頭を下げて、何とか乗り切りました。
その後、NTTが、全国のマンションにインターネットを導入するべく、フレッツ光という商品をスタートさせました。当時NTTからいちはやくフレッツ光の代理店として声をかけていただいて、そこから急激に会社が成長しました。
ー高野:おぉすごい…。
ー中西:当時のフレッツ光のインターネット回線は、20世帯以上のマンションにしか設置できないというNTTのルールがありました。インターネットの機械をマンションに設置する際に、NTTが全額費用負担し、その後インターネットを使用する入居者から課金するシステムだったので、ある程度の戸数がないと採算が取れなかったんです。
でも、僕たちがマンションのオーナー様や管理会社のところにいくと、圧倒的に19戸以下のマンションが多い。「なんで20戸以上しか設置できないの?」と聞かれるのですが「NTTの決まりなので…」と言うしかありませんでした。
大型のマンションは、もともと設備もよく共用部も充実しています。そこにインターネットが使えるとなると、ますます入居者は増えますが、逆に小さなマンションは設備もあまりなく、インターネットも使えないとなると、入居者が集まらない…。
「インターネットは本来、小さいマンションにこそ必要なのに…!」と思っていたところ、京都の会社が、19戸以下のマンションにもインターネットサービスを提供していることを知りました。そこで、まだ技術的なノウハウがなかった僕たちは、その商品の代理店をさせてもらうことになりました。
ー高野:そのことが、現在の主力商品「B-CUBIC」誕生のきっかけになるのですね。
ー中西:はい。ただ、それは思わぬ形でやってきました。その京都の会社の社長が追い出されてしまい、そこが内部崩壊という状態になりました。すると、その京都の会社で働いていた社員さんが、技術者メンバーも含めて「ブロードエンタープライズで雇ってもらえないか」と言ってきてくれまして。技術メンバーが入社してくれたことで、サービスを自社で立ち上げることができるようになり、「B-CUBIC」を販売していくことになりました。
ー高野:中西社長のお話を聞いていると、あらゆるピンチをチャンスに変えていかれていて本当にすごいです…!では、その頃から、現在の「家族経営」や理念経営へと舵をきっていかれたのでしょうか。
ー中西:そうですね、その頃からですね。当時会社には、人事制度がありませんでした。唯一あったのは、「歩合給の表」だけ。典型的な営業会社でした。当時は中途採用で営業マンを採用し、売れる人は給料をどんどんもらっていくし、ついてこれない人はやめていくといった感じでした。
ただ、こんなことを言うのもなんですが…当時売上をあげる社員はあくが強い方が多かったんです…。売上をあげたいあまり、裏では会社の方針にそぐわないことまでやっていたこともあったようですが、売上を上げている分、周りは何も言えないわけです。その状態を目の当たりにしたときに「僕はどんな会社を作りたいんだろう」と真剣に考えるようになりました。
そして、「売上があがるだけでいいなら、今のままでいいかもしれない。でも、自分が本当に作りたい会社はそうではない!」と思うようになりました。
実は大学の時に、哲学本や様々な成功者の本を読み漁った時期があるのですが、そこでみなが共通して言っていることは1つ、「世のため人のため」だでした。そんなことを思い出して、参加したある経営セミナーで「経営には、会社の軸・根幹になる経営理念が必要だ」ということを知りました。
「自分も世のため人のためになるような人間でありたいし、そういう会社を作っていきたい。じゃあ、経営理念を作ろう!」と、そこから1年かけて経営理念を作成しました。
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