働く女性の皆さんこんにちは。毎回大好評の、女性が活躍するベンチャー企業の社長インタビュー。今回のゲストは、株式会社エイブルワークの佐藤栄哲社長。「すべての会社に人事部を〜人事のチカラで会社を「みんながいきる場所」にする〜」という経営理念のもと、人事部サービス「MINAGINE」や人材サービス「AWG」を展開する会社です。「人事のプロ」として、一部上場企業から中小企業まで、幅広く多くの会社から信頼を集めるエイブルワーク。最近では社内の女性社員比率も増え、女性の役職者も誕生するなど、性別年齢問わず社員さんが活躍されています。
1.高校1年生で事業家になることを決意した佐藤社長。
ー高野:4月に大阪本社を移転されたということで、おめでとうございます。佐藤社長は、大学生の頃に既に起業されていたとのことですが、子どもの頃から起業を目指しておられたのですか?
ー佐藤:はい。高校1年生の16歳の時に、「将来は会社を興す」と決めました。僕は、中学受験も高校受験も自分が納得する結果ではなかったのですが、そんな僕を見て高校の入学式の日に父親から「おまえは、勉強が嫌いか?それやったら、無理に高校行って勉強せんでもええよ」と言われました。
ー高野:えー寛大なお父様ですね…!
佐藤:続けてこう言われました。
「でも、お父さんがおまえの面倒を見るのは20歳になるまでや。20歳になったら自分でご飯を食べていけるようにならないかん。大事なことは、勉強よりも将来どういう仕事につくかを決めることや。やりたいことをするために、もし高校に行く必要がないなら、高校を辞めてもいいよ」と。
父親は当時、家庭教師派遣・学習塾の会社を経営していましたが、「勉強しろ」と言われたことは一度もありませんでしたね。むしろ放任主義でした。
ー高野:愛のある自立教育ですね。
ー佐藤:そうですね。そこで「20歳まであと4年しかない!」と思った僕は、やりたいことを見つけるために多くの本を読みました。そして、人と同じが嫌いで、どこへ行ってもリーダーシップをとることが多い自分に向いていることは何だろうと考えた結果、「将来は事業家になる」と決めました。
「事業家になるために、大学は経営学部に行きたい」と思い調べてみると、当時国公立で経営学部がある大学は、関西では神戸大学しかありませんでした。「じゃあ、神戸大に行こう!」と決めて猛勉強し、入学することができました。
ー高野:「神戸大に行こう!」と決めて、その通り合格されるとはすごいです…。佐藤社長はまさに有言実行の方なのですね。そして大学入学後、起業されるきっかけは何だったのですか?
ー佐藤:大学受験が終わって入学までの間に、車の合宿免許を取りに行きました。するとそこに、リョーマという学生ベンチャーのメンバーがいました。リョーマは、関西の現役大学生を中心とした伝説の学生ベンチャーで、その合宿免許も実はリョーマが斡旋していたものでした。
そしてメンバーに「僕は将来経営者になる!」という話をしていたら、「お前、おもろいな!うちに入れよ!」と言われて、リョーマに加わることになりました。
ー高野:リョーマに参画していたメンバーの中から、上場企業の創業者が何人も輩出されているというのは有名な話ですよね。
ー佐藤:すごいメンバーばかりでしたね。そこで、僕は営業をしていましたが、2年生の終わり頃のことでした。大阪の鶴見で「花の万博」が開催されたのですが、営業先から「パビリオンの運営をするんだが、運営スタッフが人手不足で困っている。学生アルバイトを集めてもらえないか?」と相談を受けました。当時はバブルだったので、フリーターなんていませんし、世の中本当に人手不足でした。
「できます!」と2つ返事して、帰ってから代表に相談したところ「うちは、広告代理店やから人材派遣はやらへん。おまえは将来自分で会社を作りたいんやろ?だったら、自分でやってみたら?」と言われました。
「そうか!」と思い、早速人材派遣の会社を作って、学生のアルバイト派遣事業をスタートさせました。
ー高野:おぉ…!現在人材派遣や人事部サービスをされていますが、そのきっかけはなんと営業先からの一言だったのですね。
ー佐藤:そうなんです!人生って不思議ですよね。当時は、1日単位の短期アルバイト斡旋業者はありませんでした。ただ企業からは、コンサートの運営や引っ越しなど、1日だけ人出が欲しいというニーズが高かったんです。一方で学生側も、「家庭教師や塾講師のアルバイトは、時給はいいけれど入れる時間が短いから結局バイト代を稼げない。その合間にできるバイトがあればいいのに。」というジレンマを抱える人が多かったんです。
うまく企業と学生のニーズがマッチして、この事業は一気に数億円の売上になりました。これが、僕の大学時代でした。
2.大企業で事業家になる経験を積んだ10年間。
ー高野:大学卒業後も、この人材派遣事業を続けていこうとは思われなかったのですか?
ー佐藤:そう考えたこともありましたが、大学の経営学の授業を受けている中でふと思ったんです。「僕は起業したとは言え、経営学を使わず無我夢中で朝から晩まで働いているだけだ。立派な事業家になるには、一度社会に出て、経営学にのっとって会社運営している会社で働いてみるべきでは?」と。
そして父親に、「僕の学生派遣の事業、親父やる?」と聞くと「やるわ!」と言ってくれたので、父親に事業を全部譲って、僕は大学卒業後に大手総合商社に入社することになりました。
ー高野:起業から、大手企業への就職とは…180度違う世界に飛び込まれたのですね。
ー佐藤:今思えば、あのまま自分で事業をしていても良かったなと思ったりはします。20代は体力もあり、自由で、お金が無くてもどうってことありません。その期間に僕は大手企業でがむしゃらに働いたわけですが、その分をスタートアップにあてていたら…と考えることはありますね。
ただ僕は「大手商社に入社するのは、事業家としての経験を積むためだ」という明確な目的を持っていたので、10年以内に①自分で商品を作る ②その商品を海外展開させる ③事業会社を作るという3つの目標を掲げ、結果的に大変濃い10年間を送ることができました。
でも実際入社すると先輩から「うちの会社で20代のうちにそんなん経験するなんて絶対無理やで。40代50代になってせめて課長になってからの話や。」と言われて、愕然としました。
ー高野:大手企業であればそうでしょうね…それにしても目標を掲げて入社した途端その事実を知るのはショックです。
ー佐藤:「面接の時に人事部の人に伝えたら、うちでは君がやりたいことを全部できると言われたから入社したのに!話が違う!」と腹がたった僕は、本部長に「僕、だまされました!どういうことですか!?」と直談判しに行きました。
するとその本部長の方がすごく出来た方でして…。
「話はわかった。でも新人にいきなりそんなことは任せられない。今君の営業部署の利益が年間1億8000万。君の力で3倍にしたらやりたいことさせてあげるよ」と言ってくれました。
「3倍ですね!分かりました!6億にすればいいんですね!」と、そこからはがむしゃらに、無我夢中で働きましたね。「周りが40歳〜50歳でやることを僕は10年でやりたいなら、周りの3倍働けばいい」と思い、基本毎日20時間働いていました。
ー高野:佐藤社長は本当に素直に実行されるので、その素直さと行動力でどんどん道を切り開いていかれたんですね。
ー佐藤:ありがとうございます。僕の部署ではお酒を取り扱っていましたが、当時会社が唯一取り扱っていない酒類がワインでした。目標の1つ目「自分で商品を作る」の準備のために、夜の21時〜22時に自分の仕事を終えて、夜中にワイン会社に販売企画のFAXを送る日々が続きました。
すると3年目に、ワイン会社から相手にしてもらえるようになり、ちょうどワインブームの到来でワイン市場が4倍になり、その波に乗って目標の利益6億円を達成できました。26歳、5年目のことです。
ー高野:この時点でまだ26歳とは…普通なら確実に40歳くらいにはなってますよね…。では、晴れてやりたい仕事がさせてもらえるということになったのですか?
ー佐藤:それがですね…直談判しにいった本部長が、当時昇格して役員になっておられたのですが、「あの時の約束、覚えてますか?」と話をしに行ったところ「え?何それ、覚えてない」と言われてしまいまして(笑)
でも、その頃には「部下も持たないのに1人でやって稼いでる奴がいる」と、社内で少し目立つ存在ではあったのと、200本くらい事業プランを作り、無視されても提出し続けていたので、徐々に認めて頂けるようになり、案件もほぼ通してもらえるようになりました。
そして目標の2つ目、海外展開については、年間200日以上海外出張し、40カ国の市場開拓ができたので、残すはあと1つ、事業会社を作り経営する目標だけになりました。
そして28歳の時。アルゼンチンに畑と製造工場を作り事業会社を作れることになったのですが、「事業会社の社長になれるのは役員以上」という社内規定がありました。当時の僕は平社員だったので、せっかく僕が作った事業でもそこで経営はさせてもらえないことが分かりました。
ー高野:えー!一難去ってまた一難ですね…。
ー佐藤:僕が経営できないなら、せめて、経営者になる役員の面接だけはさせてくれと申し出てOKを頂きましたが、みんな情熱が感じられなくて…そんな中途半端なことするなら、誰も出さないほうがマシだと思った僕は、面接で全員を落としてしまいました。
ー高野:20代の若造が、40代50代の役員を全員落とすなんて、喧嘩売っているような…
ー佐藤:そうです(笑)上司からも「おまえ何様のつもりやー!」と胸倉掴まれましたが、こっちも本気ですから。また上司も、僕がどれだけの思いでここまでやってきたかをずっと見てくれていたので、最終的には理解してくれて。上にかけあってくれて、結果的に僕が経営を任されることになりました。平社員で事業会社の社長をするのは、当時会社史上初のことでした。
ー高野:すごいです…!佐藤社長の話を聞いていると、何でもできないことはないいんだと気付かされます。
佐藤:やらせてもらえないとか、前例がないとか、ルールがどうだとか、その程度で諦めるぐらいだったら所詮、無理ですよね。全ては、思いと実績があれば、絶対乗り越えていけます。必死でやれば、必ず周りは動いてくれますよ。
そして10年いた商社を退職し、色々な経緯もあって、大学時代に父親に譲った事業と会社を、また僕が引き継いで経営することになりました。
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