Chapter2.これまでの私
(*安達さんのセミナーで大活躍する小物。可愛いです)
2-1:幼少期-学生時代
ー子どもの頃から将来は働こうと決めていた?
はい、働くつもりでいました。両親が自宅で女性服の洋装店を営んでおり、父と母が働く姿を側で見て育ったので、働くことはとても自然なことでした。母が洋服を縫い、父が営業をする役割分担だったようですが、父は大変営業が得意で、大きな会社の社長や会長夫人の洋服のお仕事依頼がひっきりなしに来ているお店で。両親が仕事で忙しかったので、私は幼稚園の頃から自分で朝ご飯にサンドイッチを作り、登園の準備をして母を呼びに行き、幼稚園バスの待ち合わせ場所に行くようになりました。
両親の商売はおかげ様で繁盛し、小学生になる頃には私は3歳下の弟の面倒や家事一切を自分でするようになりました。朝ご飯を作り、学校から帰ると近くの市場に買い物に行き、晩御飯を作って洗濯物をとりこみ、アイロンをあてて掃除する…。小学生なので満足に漢字が読めなかったですが、辞書をひきながら料理本の手順を読み進め、小学校3年生の頃には、ある程度ちゃんとした料理を作れるようになっていました。
ー大学生の頃は将来についてどう考えていた?
小さい頃から将来は働くものだと思っていたので「ではどの道で働くか」についてよく考えていました。大学生になる頃には、実家が既成品の洋服も販売するようになり、父がゴルフ場や病院に営業するところに同行させてもらうこともあったのですが、その時の父の営業が本当にすごくて。その父の姿を見て「営業職は面白い!将来は営業の仕事につこう!」と決めました。
ーなぜ新卒でハウスメーカーの営業の道へ?
「せっかく営業をするなら、お客様と長く付き合える業種がいい」と考えていた私は、「長く付き合えるもの=扱う金額が大きいもの=家」という単純な思考回路で、ハウスメーカーを中心に就活しました(笑)当時は、男女雇用機会均等法が施行され2年目の年。「今の時代は、男女問わず雇用均等なのだな」と単純に思っていましたが、実際は全く違いましたね。法律が出来あがっただけで、面接では「女の人は営業として使えないんだよね」と露骨に言われたこともありました。就活を進めるうちに、大企業でも女性営業を受け入れる体制があるハウスメーカーはほぼ無いことを知り、地元の大手ハウスメーカーの協業代理店に面接に行ったところ「女性を入れるのも面白いかもなぁ」とおっしゃって頂き、採用されました。
2-2:社会人-トップセールスへの道
ーハウスメーカーの代理店ではどのような仕事を?
「これで、個人住宅を売る営業の仕事ができる!」と喜んだのもつかぬ間、社内では「個人住宅を売るのに女性営業はいらん。夜訪が多いから、何かあっても責任がとれない」と言われ、地主さんに資産活用や税金対策の営業をする部署にまわされました。ただ、実はこの資産活用の部署が大変面白く、結果的にこの部署に配属されてよかったですね。個人住宅は半年もあれば建てることができますが、アパートはそうはいきません。田んぼを埋める申請に始まり、建てると決めて1年後にようやく着工することもざらにありました。個人住宅を建てる時には無い様々な規定や税金・法務関係の手続きは、大変勉強になりました。
ー実際営業を経験してみてどうだった?
当時トップセールスだった上司に同行し、商談中の上司の言葉を書き留め、自分一人で営業に出始めてからは、上司が言っていた言葉をそのままお客様に伝えるようにしました。「詳しい話が聞きたい」と言われれば、上司に同行をお願いし説明してもらっていましたが、次第に営業の感覚が掴めるようになりました。後に心理学を学んで分かったことですが、この行動は「モデリング」と言います。何をするにも、うまくいっている人をそのまま真似るとうまくいく。「個性や自分らしさ」は、モデリングして、コツを掴んだ後に考えればいいことです。上司の指導のかいもあり、2年経った頃から実績が出始め、18年間の勤務期間中13年は、全国トップ10入りを維持することができました。
2-3:出産、育児と両立
ー結婚・出産はハウスメーカー勤務の18年の間で?
はい。25歳で結婚しましたが、義理の両親が営んでいた喫茶店がうまくいかなくなり、借金もあり、お店をたたんで義理の両親と同居することになりました。そして私の第一子妊娠中に借金返済に取り組み始めました。義理の両親との同居については、嫌だとは思いませんでしたね。「まぁ、そうするしかないよな〜」という感じで冷静に受けとめていました。
出産しても働き続けるつもりだったので産後半年間は仕事の勘が鈍らないよう会社から会議資料を送ってもらって目を通し、子どもが6か月になった時に保育園に預けて復帰しました。6か月で保育園に預けた理由は、8か月になれば母親をあと追いすると聞いていたから。半年で預けた方が、子どもにとっても良いのかなと考えていました。実際は、朝保育園に子ども預けに行っても、子どもが大丈夫過ぎて、逆に私の方が泣きそうになりましたね(笑)
ー2人目妊娠には理由があったと聞いたのだけど…
実は出産については色々ありました。1人目は帝王切開で出産したのですが、その手術で、ある病に感染してしまいました。今でこそ問題視されていますが、当時は先生方もご存じないことで。1年間抗がん剤治療をし、29歳で入院しましたが、その際に「あなたはあと20年の命。まだ若いから進行もはやいと思う」と告げられたんですね。さすがにショックでした。ただその時に「私はこれから生きられたとしても、子どもが22歳になるまでしか見守ってあげられない。その時に彼女が一人っ子だと寂しいだろうから、二人目を産もう」と決めました。体に負担がかかるとよくないということで、すぐ2人目妊娠に踏み切ることは難しかったのですが、実験段階の薬が運良く適応され、二人目を授かることができました。
2-4:会社退職ー独立までの道のり
ートップセールスで順風満帆だったのに独立に至った経緯は?
働いていたハウスメーカーのことは大好きだったのですが、ある時、お客様に対して嘘をついているような感覚を抱くようになりました。「税金、相続対策」という理由でお客様にアパートを建てて頂いたのに、実際は空室もあり、提案どおりにいかないことが起こり始めたからです。そこで「空室対策を担当をさせて欲しい」と会社に直談判し、地域住民や消費者の視点を織り交ぜ、自分なりに考え抜いて提案書をあげましたが、見事に却下されました。「君は会社の稼ぎ頭。率先して売上を上げてほしいので、空室対策の管理責任者なんてさせられない」という理由で。会社の言うことも理解できましたが、私は今の気持ちのままお客様に提案することはできないと思い、退職しました。
ーそこからすぐに独立を?
いえ、独立ではなく、その頃考えていたのは金融機関への転職でした。そこでなら前職で自分が直面した問題を解決出来るのではないかと思ったからです。その頃タイミングよく金融機関からお声がけを頂き、転職したのですが、入社後に現在の心理学と出逢い、その後独立を決めました。実は私が現在のように「心」を軸にして教育事業をやろうと思ったのは、以前から「ものではなく、自分を売れるようになりたい」と思っていたから。ハウスメーカーの新人時代も、初めて伺うお客様のお宅のインターホンを鳴らして「◯◯の安達です!」ではなく「安達でーす!」と言っていたこともありました(笑)
ハウスメーカーの営業をしている限りは、土地を持っている方しかお客様にできないですし、金融機関でも、お客様は限定されてしまいます。もっと万人に対して営業できるものは無いかと考えた時「心だ!」と思いました。「心はみんなが持っているし、これなら私の身一つでスタートできる!」と。そんな決意で金融機関を退職した翌月に、リーマンショックが起こり業界全体が大変なことになったのですが、あのタイミングでの独立は、今でも必然だったのかもしれないなと思いますね。
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