Chapter2.これまでの私
2-1:学生時代-就職
ーどんな学生時代を過ごしていた?
私が高校生の頃は、ヒップホップダンスが大変流行っており、私もTシャツに短パン姿で日々ダンスに打ち込んでいました。今では想像つかないですよね(笑)高校はインターナショナルスクールに通っていたということもあり、次第に「アメリカで暮らしてみたい。卒業後はアメリカの大学に留学しよう」と思うようになりました。
アメリカの大学に留学するにはTOEFLで高スコアを獲得する必要があったので、高校時代は集中して英語を勉強しましたが、進路を決めるギリギリの時期に親から反対されてしまい…。「え?今さら反対する?」という(笑)とはいえ「今から他の教科を勉強しても、日本の大学入試には到底間に合わない。学んだ英語を活かして入れる大学は無いか」と探したところ、同志社大学神学部のAO推薦枠があり入学を決めました。
ー当時からCAを目指していた?
いえ、特別強く「客室乗務員になりたい!」と思っていたわけではありませんでした。かといって、他に目的意識を持って大学時代を過ごしていたわけでもなく、気づけば就職活動の時期がやってた感じ。私が大学3年生の頃は、就職氷河期の真っ只中。かつ私は神学部という珍しい学部専攻だったので、「普通に就職活動をしても内定を獲得するのは難しいだろう」と考えていました。
そこで自己分析をしてみた結果「事務や営業は自分には向いていなさそうだ。事務や営業以外となると残る職種は接客業のみ。」ということになり、「接客業メインで就活をしよう」と決めて、内定を頂いた中に客室乗務員がありました。
ー接客業を受けた中にたまたまCAがあったと?
実は大学4年生の頃、外資系(アメリカ)の航空会社でアルバイトをしていました。いわゆるリゾート便で機内の客室乗務員の中に日本人は私を含めて2人だけ。そこで驚いたのは「アメリカではCAの社会的地位が低い」という事実でした。「なんで大学まで行って、CAになるの?」とよく同僚から言われていましたね。当時の日本では客室乗務員は花形の職業でしたが、アメリカではそうではありませんでした。
その経験から「日系の航空会社はどんな環境なんだろう?」と興味が湧き、就活では日系の航空会社から客室乗務員の内定を頂いたので、そちらに入社させていただきました。
実際日系の航空会社に入社して感じたのは「なんて丁寧に教えてくれる会社なのだ!」ということ。よく「客室乗務員は華やかな世界に思われがちだけど、実際入社すると過酷な環境だから辛い」なんて言いますよね。でも私の場合は真逆。外資系の環境も経験をしていたので、逆に日系の会社のきめ細やかな教育に感動しました。いじめや軋轢もなく、大変充実していて楽しかったです。
2-2:CA時代-コンサルティング会社で営業
ーCA時代に印象に残っていることは?
こういう時に仕事ができるエピソードを思い出せるといいのですが、思い出すのは失敗談ばかりで(笑)機内の台所担当になった時、オーブンで温めたパンを出した瞬間に機体が揺れて、アルミホイルごとパンを床に落としてしまったことや、目覚時計が鳴らず「あと10分で出社時間!」という時間に飛び起きて、会社から電話がじゃんじゃんかかってきて気が動転して放心状態になってしまったことなど…挙げればきりがありません。ただ、総じて大変充実していたと思います。
ーその後のキャリア設計は?
客室乗務員は一旦退職して転職活動をしましたが、マーケティングやITスキルといった一般的な会社で活かせるスキルを持っているわけではなく、仕事がなかなか見つかりませんでした。そんな時「コンサルタント」の仕事を見つけて「これなら面白そうだ!」と思い飛びこんでみたところ、蓋を開けてみると実際はバリバリの営業職。 「コンサルタントとして顧客にアドバイスをしてもらうけど、その顧客は自分の足で見つけてきてね」というわけ。
販促広告の営業でしたが、売り方を手取り足取り教わることもないまま「いってらっしゃい!」と送り出される状態で、最初の半年は全く成果が出ませんでした。「辞めたい」という気持ちはありましたが、「辞めたところで転職は難しい。だったら頑張るしか無い」という思いのほうが強かったですね。そんな日々の中で徐々に契約を頂いたり、紹介を頂くことが増えてきて、お客様の支えのおかげで辞めずに続けることが出来ました。
当時のお客様は小売業の会社が多かったのですが、そのうちに「あんた、元CAやったら、接客も教えられるやろ?お願いするわ!」とお声がけ頂くようになりました。ただその時は客室乗務員を辞めてしばらく経っていたので、もう一度接客の現場を学びなおそうと思い、月に3回ほど客室乗務員として仕事をするようになりました。平日は毎日営業をして、週末は客室乗務員として空を飛んで、お客様の手伝いもして…当時は吐きそうなくらい働いていました(笑)
ー実は営業はご自身に向いていた?
大学時代の就活の時は営業は選択肢から外していましたが、よく売れたのをきっかけに「私、営業は得意かもしれない」と気づきました。また、客室乗務員の頃は、お客様とは基本「一期一会」ですが、営業は何回もお客様とお会いして人間関係を積み重ねていけるので、素敵な仕事だと思いました。その後、大学講師のお誘いを受けたので、その会社を退職して転職することにしましたが、当初お聞きしていた仕事内容と全く違うことがわかり、そのお話はお断りして、30歳の春に、なんと無職になってしまったという…。転職活動をしてもなかなか仕事が見つからないので 「じゃあもう、自分でやるしかない」と思い、会社を立ち上げることを決めました。
2-3:会社設立ー創業期
ーなぜ接客業で独立しようと?
何も無いところから会社を作るなんて、今思うと「無謀」としか言いようがありませんが…当時「何で食べていこう」と考えた時、お世話になった会社と同じ広告の商品を売るのはルール違反だと思ったので、前職では私のみ行っていた「接客支援」の仕事をしようと決めました。ただ、接客支援と一言で言っても、お店によって価格帯やコンセプトが違うので、当然求められる接客も変わってきます。その全てに対応し指導する為には、多くの知識と経験を要するので、難しく奥が深い仕事なんですね。ところが当時は、そこまで深く考えていませんでした。「客室乗務員経験があり、接客指導を頼んで頂いたお客様にも好評だし、独立してもなんとかなるだろう」と軽く考えていた部分もありました。
ーこの仕事が使命感に変わった経緯は?
ターニングポイントは3回ありました。1回目は、創業初期に会社の売上がぐっと伸びたときです。当時は、私を含め3人しか講師がいなかったので、全ての仕事を受けきれない状況でした。せっかくお客様からお声がけ頂いているのに応えられない不甲斐なさを感じ、このままではいけないと思うようになりました。そこから「私はどうなりたいのか」「会社をどうしていきたいのか」と今後の方向性について真剣に考えるようになりました。
2回目のターニングポイントは、2010年に私が以前勤めていた日系の航空会社が破たんしてしまったときです。当時お世話になった先輩の多くが会社の破たんとともに退職をされましたが、不景気の影響もあり次の仕事が無い状態でした。それを目の当たりにした時「何かできることはないか?」と強く思いました。そこで、一般社団法人日本マナーOJTインストラクター協会(JAMOI)をたちあげ講師養成をスタートさせました。
3回目のターニングポイントは3年前。JAMOIには、設立当初は近しい人たちだけが登録してくださっていましたが、みるみる組織が大きくなり全国に広がり、私のことを知らないし見たこともないという方も、どんどんと登録をして下さるようになりました。以前は「私が営業をして契約をとり、講師の皆さんに仕事をお願いする」という大枠のみで運営していましたが、そのやり方では通用する規模ではなくなってしまった。そこで組織化を決意し、全員が目指すビジョンを策定したり、私は一旦前線からひいて、本部講師メンバーをメインとした管理体制を構築しました。
→笹西さんの今後の目標、展望は? |